サナギさんの魅力・施川作品の魅力

昨日久しぶりの更新で調子に乗って単行本の感想をいっぱい書いたら今日書くネタが無いという事態に陥りました。今日書かなかったらまた更新から離れてしまいそうですが、たまごまごごはんさん経由で興味深い話があったのでそれについて自分なりに書いてみたいと思います。
写メしあう「サナギさん」と「フユちゃん」の、言葉じゃない愛情。 - たまごまごごはん
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「施川ユウキファン」なのか「サナギさんファン」なのか、それが問題 - 近代麻雀漫画生活オリジナル
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「サナギさん」と「がんばれ酢めし疑獄!!」のキャラ付け - たまごまごごはん
サナギさんファン」というより「施川ユウキファン」なので、僕の施川作品の楽しみ方はいのけんさん寄りです。その特異な言語センスがなんとも面白い。酢めし疑獄で一番印象に残るのは、「裸婦デッサン」。

唐突に出てくる「裸婦」っていう言葉と、「(自称)裸婦」が発する「いかにも」「だが」というセリフの違和感。面白く感じない人には「だから何?」って済まされそうですが、こういった言葉遊びのおかしさが核となっています。
他の作品に無くて酢めし疑獄にあったのは、猟奇な展開。時折突拍子も無くキャラを殺す、それもいつもの簡素な絵柄に似つかわしくないグロい方法という話があるたびにシュールの一言では片付けられない異常さがありました。そういった面に引きつつも、何をしでかすか分からない緊張感があってそれはそれでいい味出してたと思います。今も感じる「チャンピオンなら他にはない変な漫画が読める」という期待の原点となりました。サナギさんが始まった当初は以前の黒さや突拍子の無さが影を潜めて物足りなさを感じていたのですが、言葉使いの楽しさは更に洗練されてきているし、以前の直接的な猟奇さの変わりに「キャラの可愛さ」が徐々に感じられてきて酢めし以上に楽しめてきました。ここら辺を自覚したきっかけが、これまたたまごまごさんのみつどもえレビューを読んだ時です。
「萌え」と「毒」のバランスを「みつどもえ」から考える。 - たまごまごごはん
「毒」があることで「萌え」が引き立つという考え方。みつどもえも「ただのギャグ漫画」でも「萌えだけでギャグが弱い漫画」でもなく、「萌えるからこそ笑える漫画」だと思うので納得すると共に、「元々毒のあった施川作品に萌えが加わったことでまた作品の魅力が引き立っているんじゃないか」と自分なりに考えてみました。先週のチャンピオンの写メールの回も、酢めしのように使い捨てキャラで同じように進めても面白いなるでしょうが、サナギさんとフユちゃんの2人の関係だからこその面白みがそこに加わるのだと思います。そこら辺の視点はたまごまごさんの記事を読むことで意識しました。施川作品でキャラの関係性を楽しむというのはなかなか思いつかないことだと思います。酢めしの頃から施川先生を追いかけていて「施川作品=言葉イジリの妙」との印象が根付いた読者はそうなんじゃないでしょうか。作者も意識せずに描いたかもしれない2人の関係の百合っぽさを、深く且つ違う角度で読むことで見出し、新しい作品の魅力を付随させる。1つの作品に様々な角度から楽しむのって面白いですね。サナギさんに限らず施川作品は多彩な楽しみ方が出来ると思います。作者の意図があるにせよ無いにせよ、読者が「こういった楽しみ方がある」って提案できるのが良いんじゃないでしょうか
まとまりに欠けてしまいましたが、つまり何が言いたいかというと、たまごまごさんが近代麻雀読むようになって、「リスキーエッジ2巻が出るように応援しています」といった記事をかいてくれたらいいなってことです。自分も麻雀はあまり詳しくないですが、そんな人には片山まさゆき先生の「打姫オバカミーコ」がオススメ。基本的なルールを覚えたらかなり楽しめると思います。
しかしまぁまとまりのない文だこと。意味が分かりにくいと思うので悪いですが各自で補完してください。久米田談義の時みたいに、施川談義なんてやっても面白そうですよね。いくらでも語る余地のある作家さんだと思うので。